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"Atoms for peace and atoms for war are Siamese twins” Hannes Alfven

ジェフリー・T. リッチェルソン 『世界史を動かすスパイ衛星』

世界史を動かすスパイ衛星―初めて明かされたその能力と成果

世界史を動かすスパイ衛星―初めて明かされたその能力と成果

米国の偵察衛星について、旧ソ連や米国内での政治的な駆け引きを描きつつも、技術的な内容を主に振り返った本。KH-4aからKH-11の活動について特に詳しい。江畑 謙介氏によって加えられた1章が門外漢をこの分野に招き入れる役割を巧みに果たしている。

感想

本書で明らかなのは、米国が一つの偵察衛星の使用を辞める場合には、新しい高性能の衛星がすでに稼働しているということである。したがって無人シャトル「X-37B」がおよそ2年宇宙で何をしていたかは分からないが、その役割を補う何かがすでに宇宙を飛んでいるのであろう。

偵察衛星はいくつかの技術刷新を経て大幅に進歩したものの、やはり屋根の下で起きていることはわからないという性質を抱えている。サイバー空間においては大雑把な傾向がわかるだけでなく、メール・電話の中身まで見えてしまう。サイバーと宇宙は違うというべきか。

興味深い点メモ

  • 1994年湾岸戦争時点で米国がもつ偵察衛星はKH-11が3基、発達型KH-11が2基、ラクロスレーダー衛星が1基、および確認がとれていないがもう一つの発達型KH-11の合計7期
  • 対するロシアはフィルム回収型とデジタル映像型を併用しているが数は少ない。イラクのクェート侵攻の翌日にコスモス2089が、その後8/31にコスモス2099が打ち上げられており、有事の際の対応が早い。
  • 8・19クーデターで緊張が高まる中、ソ連戦略ロケット軍最高司令官のY・P・マキシモフ大将は、衛星による監視の存在を前提にして、配備されていたICBMを呼び戻し、米側への核攻撃の意図がないこと、軍隊の統制に乱れがないことを見せた。このため米軍は緊急警戒態勢に入らず、緊張のエスカレーションが起こることがなかった。偵察衛星によって緊張緩和が実現された好例としてP35に紹介されている。
  • 偵察衛星には光学観測(フィルム、CCD)、赤外線観測などが用いられ、1980年台からは希少に左右されないレーダー映像(磁気?)が導入された。
  • 偵察衛星の限られたリソースを戦略情報収集にあてるか、戦術情報収集にあてるか、調整のためにCOMIREX(映像要求及び利用委員会、1967年設置)が大きな役割を果たした。

NPIC(国家写真解析センター)をめぐる駆け引き

1960年に各軍、情報機関が独立しておこなってきた宇宙からの写真撮影と解析を集約す「NPIC(国家写真解析センター)」の必要性が米国政府内に広く認識されたものの各軍、NSA、CIA、国務省の主導権争いが行われ、裁定はNSCに諮られることとなった。

その席でジョージ・キスチアコウスキー(アイゼンハワーの科学顧問)は「この分野では科学の知識をもって、最後まで仕事をやり遂げる人間が必要である」とし、軍人が運用するセンターでなく文官が運用するセンターとする方向性を打ち出した。結果アレン・ダレスCIA長官がトップ、その下に海兵隊大将が指名された。

偵察衛星に対する欺瞞技術

1979年のNSCの報告書によるとソ連が用いた欺瞞技術は以下のとおり

  • 破砕迷彩塗装(1964):ICBM基地を火災が起きたかのような塗装をする。
  • 色調調合(1964):ミサイルを適当な色で塗装する
  • 偽の道路と発射基地(1966): 爆撃機のパイロットを混乱させることを目的に
  • 衛星警報システム(1966):アメリカのSATRAN(衛星偵察事前警報)のソ連版で軍の指揮官にアメリカの偵察衛星が上空にある時間を警告
  • ミサイルカバー(1967):ミサイルを隠す目的で使用されるカバー
  • 潜水艦用トンネル(1967):探知をさけるために20隻以上の核兵器搭載潜水艦を隠せる沿岸トンネルを海軍基地に建設
  • 潜水艦用カバー(1970):潜水艦をカバーし、搭載作業中のミサイルを隠す ダミー潜水艦(1971):潜水艦の形をしたバルーン。暴風のあとで折れ曲がっているのが確認されている
  • 夜間実験(1973):移動式のミサイルのテストは夜間に実施された
  • 鉄道側線の隠蔽(1973): 生産工場に出入りするミサイルやその他の装備を隠すために、側線を引く。

ミサイルの命中精度について偽情報をながすため、テストで発射した際の着弾でできた穴をうめて、別の場所に穴を掘るなどの駆け引きも行われていた。

中ソ国境紛争

1964年の中ソ秘密会談で中国側はロシア皇帝と清朝が締結した国境条約への不満を表明した。バイカル湖の東の地域はもともと中国皇帝が統治していた。中国の圧力にソ連は極東外交・防衛政策を見直した。1966年1月のモンゴルとの新しい防衛条約締結はその代表例である。この条約により、モンゴル国内にソ連軍が駐留を再開し、1967年初期にはその数は10万近くとなった。

情報の保全

1978年、CIA職員のウィリアム・カンパイルズは在ギリシアソ連大使館にコンタクトし、KH-11のマニュアルを3000ドルで手渡した。モチベーションは個人的な冒険心のように思われる。

1984年のJane's Defence Weeklyに掲載されたのはKH-11の写真で、職員サミュエル・L・モリソンが持ちだした。内部からの情報流出が問題点なのは今とかわらない。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/KH-11-best-SHIPYARD.jpg

偵察衛星と信頼醸成について(P.341より)

”安全保障には相互の不信を取り除く、信頼醸成が不可欠である。そこには情報の公開性が大きな効果を発揮する。もしアジアで衛星を使用した国際的軍備管理/条約査察機構が設置されれば、平和の維持に大きな力となることができよう。”